()など、小説中で記号を使うのはつまり、表現の次元をずらそうとしているからだ。
例えば、村上春樹が『海辺のカフカ』でキーワードを傍点や太字で飾ったり、田中康夫が『なんとなく、クリスタル』で欄外の注釈という形式を用いたり、……、といった特異ともいえる表現がある。また、会話文などの引用箇所を「」や“”で括る手法は、文章作法の一項目になるほどに一般的なものである。*1
これらの記号は「書く」体系の上で初めて成り立つものであり、「語る」体系の上では成り立ちがたいものではないだろうか。

文章そのものには含まれない情報を付加するそれらの記号の性質を、図や数式といった極端に「書く」的なものから句読点という「語る」的なものまで、試しに下図のように分類してみた。

書く <----図・数式----注釈----()----傍点----引用----句読点----> 語る

このように考えると「(苦笑)よりも時刻表トリックの方が斬新だな」という気分になる。*2

*1:そこからの逸脱である自由間接話法が特異なものとして扱われているのは興味深い。

*2:それもどうかと思う。