個体の死、種族の死

私たちはしばしば死に直面する。もちろん、ここでいう「死」は個体の死であり、その周囲には比較されるべき「生」が充満している。この対比に際して、そこに残された者たちの日々に思いを馳せるだろうか、生者たちの未来に待ち構える死を予感するだろうか。*1
つまりは思考の中に一般化の機構が組み込まれているかどうかという分岐である。一般化の機構は個体の死から種族の死を導き出してしまう。それが自分という個体の死よりも遥かに後の事件である限り、種族の死についての考察は実際的な意味を持たないものにしかならない。*2
さて、その実際的には意味のないことに夢中になってしまう/なれてしまう人がいるということ、しかも自分自身がそれであること、が第一の問題。さらに、自分自身が「自分自身がそれであること」を知っていることが第二の問題。そして、自分が所属している(と思っている)種族の大きさによっては個体の死と種族の死が同期しかねないことが第三の、最大の、問題だ。
「身中に面倒を抱え込むというのは厄介だなぁ、でも性分だから仕方ないよなぁ」というだけの話ではない。帰属意識が世界認識さえ変えてしまうという話でもある。

*1:二項対立による選択肢の隠蔽。

*2:一旦、極論に振る。