「ゲーデル」問題

ミステリの業界で呼ぶ「ゲーデル問題」は、作中での推理を公理系だと無条件にみなしている点で間違い^H^H^H場違いだと思う。ミステリに不完全性定理を引き込むためには、そもそも何を公理とみなすかについての言及が必要なのだ。

公理=証拠と考える

つまり、作中で提示された証拠群=公理系は正しいと仮定する。その上で如何なる推理が導けるか、その蓋然性はどの程度になるかという立場である。
あるミステリで二つの証拠が矛盾していたとしよう。その両者を真であると仮定するとあらゆる推理が破綻するのだから、(物語を進めるためには)証拠群=公理系の変更を行わなければならない。矛盾する手掛かりのどちらが「偽の手掛かり」であるかを探偵が判定する場面だ。一般的なミステリでは犯人が人間(しかも単独犯)であるという暗黙の了解があるため、人為的に操作し難い方の証拠を真だとみなす手法が取られる。これはエラリィ・クィーンの時代から変わらない傾向だ。
さて、本来のゲーデル問題に立ち返り、採用された公理系で記述できるにも関わらず公理系から推論することの出来ない命題が存在すると考える。そして、偶然にも(白々しく)「犯人は誰か」という命題が推論不能であったと仮定しよう。このようなミステリが有り得たとき、はじめて「」の外れたゲーデル問題が現れるのではないだろうか。*1

*1:この状況に一番近いのは「犯人は」という『ジョーカー』のような気もするが。