プロには「対価を受け取っているか」と「責任を引き受けているか」の二つの基準がある。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20081221#p1
へブックマークしたけどもうちょっと詳しく書いてみる。

対価を受け取っているか。

その仕事に対して対価を受け取っているかどうかを基準にプロとアマを分けるという考え方だ。対価の受け取り方は成果報酬でも雇用でも構わない。対価を受け取れるだけの仕事をしているという点で技術面の水準をクリアしているはずだ。しかし、本人の意志と関係ない仕事であり士気や誠意の面では水準以下だという可能性もある。

責任を引き受けているか。

その仕事に対して責任を引き受けているかを基準にプロとアマを分けるという考え方だ。責任の引き受け方は修正でも説明でも撤回でも賠償でも構わない。責任を引き受けるだけの意志があるという点で士気や誠意の面の水準をクリアしているはずだ。しかし、それは単なる意志の問題であり技術面では水準以下だという可能性もある。

「プロ」の変遷。

私が思うに前者は「プロ契約」、後者は「プロ意識」だ。昔の批評家は大なり小なり責任を引き受けた上で対価を受け取っていたと思う。少なくとも公式に批判されたら公式に反論を返していたようだ。しかし、今は公式に批判できる場所自体がほとんどないし、あったとしてもすぐにグダグダになってしまう*1。これでは責任の引き受けようがない。
ライターという職業には「専門家ではないが素人でもない」という前提がある。それは消費文化においては「スマートな消費者」だろう。こういった「スマートな消費者」の意見が大事にされる背景には「部外者だから*正しい*判断ができる」という通念があるのではないか。この「正しい」の意味は「正直」であり「正当」ではない*2

しかし、もう一つの「プロ」がいる。

「プロ意識」に基づいて責任を引き受けることができる文章はそれなりに正確でなくてはならない。そうでなければ何の責任を引き受けるのかすら不明確になるからだ。問題はそれを素人が読む場合で、素人はその定義からしてどれほど正確な文章でも正確に読めない。その「自分には読めなかった」という事実に対して「読めなかったのは文章が悪いからだ!」と反応する人がいる。「プロ意識」に基づいた文章がウケないのはこれが理由ではないか。
逆に責任を引き受けないでも良い文章なら正確でなくて良い。読者に理解してもらうのが目的ではなくて、理解した気分になってもらうのが目的なら尚更だ。この場合の評価の基準は「真偽」や「正誤」ではなく「快不快」だろう。この類の基準に特化したプロを、かつてこの方面に先鋭化した職業に因んで「プロ幇間」と呼んでみようか。

*1:笙野頼子大塚英志の「純文学論争」とか。論点が純文学と出版業の二つに分かれたままで最後まで議論にならなかった。

*2:実際は「正直」もかなり怪しい。