「政治」なんて嫌いだ

http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-481.htmlの「大人のカタリバ」から連想した話いろいろ。直接は関係ない。

NPOの官僚化

NPOの中にはときどき妙に官僚的な組織がある。ここでの「官僚的」とは権威主義セクショナリズムのこと。

本音で意見をぶつけ合います。

という言葉は素晴らしい。でもそれが主催者から与えられた結論を前提にしているなら「話の判る大人」のポーズに過ぎない。それがただの欺瞞ならば良いけれど。

政治について熱心に

「政治」という語はあまりにも雑多なものが詰め込まれている。自分と相手との関係だけでなく第三者への影響を考えることを「政治」と呼ぶのか、国会や官庁で行われている実務のことを「政治」と呼ぶのか、……、etc。
例えば、村上春樹エルサレム賞受賞について語る、という行為がある。その行為には沢山の層があり、それぞれが「政治」であるものの、すべて同じ「政治」ではないというように。
「政治について熱心に語る」人は「政治」に関する感性が偏っていると思う。様々な「政治」があるにも関わらず、自分の好きな特定の「政治」ばかりを見つけ出してしまう。対象にその「政治」因子があるわけではない。
まあ、この話は以前書いたのでhttp://d.hatena.ne.jp/kilrey/20081220#p1を参照。

何らかの行為が政治性を持つかどうかを決めるのは「受け手が政治性を感じたどうかか」という一点しかない。送り手は「受け手が政治性を感じる」ように期待した何かを送ることもできるが、受け手が政治性を感じない限りそこに政治性が生じない。逆に送り手は何も送らないでいることもできるが、受け手が政治性を感じる限りそこに政治性が生じている。