超大作はマスな流行、単館系はニッチな流行、両者に自明な優劣はない。

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20090802/p1で言及されたので再言及してみる。

前提。

私自身は同人的な「作者の持ち出しによる出版」を否定するつもりはない。むしろ100年先まで影響を残す作品を作るのなら、生活費くらいは手に入るが価値に見合う利益は得られない、という意味での「作者の持ち出し」は必須だとさえ思っている*1

しかし。

「面白さを見抜くわたしってカッコいい」結局、そういうことなのかなと。日本の一般観客の大半が「映画慣れ」していなくて、観る方にも作る方にも真っ当なメインストリームが無くて(id:HALTAN:20090801:p1)、そのスキマで「行間」「思わせぶり」に依存した「単館系」の監督たちというのが出てくる。そんなものをわざわざお金を払って映画館に観に行くお客さんは、「映画慣れ」していない人は「これが『分からない』とバカと思われるのが怖い」となるし、「映画を沢山観ている」人は「これが『分かる』俺様は映画通」と振る舞いたい。・・・こういうことなんだと思う。・・・ここにはどうしようもない不毛が横たわっているんだけど(要するにお客さんも作り手も双方が未熟)、この不毛は70年代以降に日本映画に関わった人たちみんなの責任でもあるんだ。

この状況は小説の世界も似たようなものだ。何か既存の「通」向けプロトコルが存在しており、それに沿ったものほど高く評価されるという。そして、そのプロトコル自身が取って代わられると、以前のものに乗った作品は様々な理由をつけて貶められる。

「流行」の論法。

一貫した評価基準があるわけでなく、恣意的に変遷するプロトコルへの一致度を以って評価する、とはつまり「流行」の論法だ。
「流行」においてはプロトコルの恣意性を吟味できない領域こそが論点の中心になる。例えば、作品の出来不出来よりも作者の「才能」や「可能性」を重視するというように。この場合には「未熟」であることさえ評価を高める理由になる。

〆。

「100年保つかどうか」という点を私が問題とするのは、100年とは作家としての寿命や読者層の変遷よりも十分に長い期間であり、「流行」の論法を脱したかどうかの目安となるからだ。

返事としては。

そのような意味で『ユリイカ』や『現代思想』はニッチな流行を目指したものだと思う。ニッチな流行のために「作者の持ち出し」を求めるのは(本義での)「同人」そのものではないだろうか。

古い作家・評論家の書くものを読むと、この辺の零細誌(零細出版社)界隈の貧乏は1950〜70年代からずっと同じみたいですし。ただ結果として自ずと金銭感覚にズレやルーズな面は出てくるので、そこに疑問を持つともう付き合えない。

というように、そういう人と付き合わない、という他の選択肢はないと思う。発表の場が他にないならともかく、『ユリイカ』や『現代思想』より読まれているサイトなんて幾らでもあるのだし。

*1:が、これは別の話。