「名は体を表す」とは限らない

名と実の関係は極めて厄介なものだ。全く関係がないということはないものの、どちらがどちらに影響を与えているかも判りにくいし、正の相関であるとも限らない。

完成された何かに対して後から名前を付ける。

この場合は「名は体を表す」ことが多い。というのも、その名前はその実体を特定の側面から表現したものとして付けられるからである。
もちろん、命名者の着目した側面が他の者の着目しがちな側面とずれている場合は理解しがたい名前となることもある。それでも、どのような側面から見た名前なのか、を知れば納得できないこともない。命名当時は適切だったが状況の変化により不適切なものになってしまった名前も多い。
このような命名は「形容」に基づくものと言える。その「形容」が適切なものかどうかは別とすれば「名は体を表す」のも当然だ。

未完成な何かに対して先に名前を付ける。

この場合は「名は体を表す」とは限らない。というのも、その名前はその実体への願望や期待を特定の側面から表現したものとして付けられるからである。
もちろん、命名者の願望や期待の内容が他の者のものとずれている場合は理解しがたい名前となる。さらには、命名者の「他の者にこのように理解してもらいたい」という願望や期待が込められている場合には現状から外れる度合いは大きくなるのではないか。
このような命名は「呪術」や「政治」に基づくものと言える。名前がその実体に及ぼす影響というものは全くないわけではない。少なくとも、その実体に関わる周囲の人間に及ぼす影響は大きいだろう。

〆。

面白いのは「呪術」に基づく名前であっても「名は体を表す」ことがしばしばある点だ。
例えば、目標として掲げている内容を達成できるような施策を実際になしている場合、次第に「名は体を表す」ようになるだろう。これは「呪術」よりも施策の成果だと解釈するのが妥当だと思われるが、しばしば「呪術」の成果であるかの如く語られるようだ*1
逆に「政治」に基づく名前では「名は体を表す」ことは少ない。
例えば、

「民主主義」と名乗る国は民主主義ではない。

といったジョークがある。これは単なるエスノジョークだが、

「民主主義」と名乗る(余所の)国は(我々の)民主主義ではない。

という語を補えば、隠れていた話者の価値観が明瞭になるだろう。そもそも政治の層においては、客観的な実体よりも主観的な評価の方が重視される、というだけのことだ。

*1:『人』という字は人と人が支えあって〜。