ジャンル論

ジャンル論は常に不毛である。譬えるならそれは交雑種間の分類学だからである。
生物分類学の場合、古代から近代までに亘って博物学の知識に基づいた分類が行われてきた。そのため、発見者の印象だけで決めるなど、恣意的な判断が繰り返されてきた。それに対し、現在では系統学の知識に基づいた分類が(全面的にではないにせよ)行われている。こちらは遺伝子上での類似性を第一原理としており、統計的に妥当である範囲で恣意性が排除されている。
小説に関するジャンル論は実際のところ、分類者の印象と既存の分類からの引用、つまりは博物学の知識、に頼っている。しかし、既存の分類といっても歴代の分類者が受けた印象を積み重ねたものに過ぎず、対象の性質よりも分類者間の文化傾向を強く反映するものにならざるを得ないだろう。
それでは、系統学と類比されるようなジャンル論が存在しているのだろうか。ミーム論も確かに有力ではあるのだが、類似性を定量化する手法が現存しない以上、遺伝子理論からの類比によって推定されている程度の有力さに過ぎない。また、ジャンル間の類似性が定量化出来たとしても、その分岐が付加逆でなければジャンル間の差異を示すことは出来ない。*1そして所謂ジャンル、純文学でもミステリでも良い、の間では時折交雑が行われている。
もう一つの手法として集合論と類比されるようなジャンル論が存在する。ジャンルを中心に考えるのならば複数のジャンルが一つの作品を含むことを認める、作品を中心に考えるのならば一つの作品がジャンルに象徴される特質を多数持つ、というジャンル−作品関係の理解である。これは論理的に正しいのだが、各ジャンルが象徴する特質の摺り合わせが困難である。*2
このようにジャンル論は不毛である。ジャンル論についての論もやはり不毛である。

*1:例えば、韻律などの規則の分岐は付加逆である。自由律俳句は何と類縁か?という問いには有効かもしれない。

*2:それでも印象依存よりはましだ。