Gene Rodman Wolfe著/柳下毅一郎訳『ケルベロス第五の首』ISBN:4336045666

「我」の物語を少しずつずらしながら繰り返す、そんな小説。

まずはぼく/弟の類似と相違が描かれる。ミスター・ミリオンは、教師としてぼく/弟を対等に扱うことによって、両者の差異を強化している。そして、両者の「我」はお互いの比較によって補強されている。
次に父が現れる。父とミスター・ミリオンは共に指導的な立場の大人ではあるが、その役割は大きく異なっている。この犬の館の父は独裁的にぼく/弟の扱いを区別することにより、ぼく/弟がお互いを比較することを難しくする。
(念のため、後半の展開は黒塗とした)
以上のように、第一話は「我」の形成・変質・崩壊の物語である。または近現代的「我」概念の虚構性に関する物語かもしれない。

  • 第二話「ジョン・V・マーシュ作『ある物語』」

この民話は「砂歩き」と「東風」という双子の物語である。
「東風」は泥の民に連れ去られ、両者は別々に育つ。成長した「砂歩き」は山の僧侶の元へ旅をするうちに、超能力を持った「影の子供たち」に出会う。「砂歩き」は夢の啓示をうけ、家族が泥の民に捕らえられたことを知る。そして、泥の民の指導者となった「東風」と再会する。
近代以前、「我」が世界と分離していなかった。「砂歩き」が見た夢の世界は現実の世界の一局面であり、「影の子供たち」が見せる幻像も一つの現実である。そのように混然一体とした世界である限り、「砂歩き」とは「東風」であり、「東風」は「砂歩き」である。これもまた「我」概念に関する物語であろう。

  • 第三話「V.R.T.」

一人の囚人に関する記録である。囚人は「マーシュ博士」、第一話の終盤に登場した男、第二話の作者と同じ名前を名乗る。彼は人類学者であり、変身能力を持つというサン・アンヌの原住民について調査を行っていた。「V.R.T.」とは自身が原住民の末裔と称し、その調査における助手を勤めた少年の名前である。
彼の手記によると

調査の旅の途中V.R.T.は死んだ。博士は独力で調査を続け、驚くべき発見を成し遂げた。しかし、その発見もサン・アンヌでは全く相手にされず、人類学者ヴェイル博士に会うためサン・クロワへと渡る。
ヴェイル博士との面会を済ませた後、そもそもどのような罪なのかも判らないままに逮捕された。
ということだそうである。
囚人は「マーシュ博士」を名乗るが信用されず、V.R.T.は原住民の末裔と称するが相手にされない。これは自身の考える自己像と周囲の考える自己像のずれに関する物語である。他者からの反射を通してしか認識することのできない、「我」概念の非自立性に関する物語とも言える。

さて、以上の三話で本書『ケルベロス第五の首』は構成されている。しかし、各話の中には語られなかった、そして断片的に語られた、事実が多々ある。それらを組み合わせることによって初めて姿を表す物語を、私は仮に第x話『ケルベロス第五の首』と名付けようと思う。*1

*1:とは言え、まだ第二話の読みが怪しいんだよなぁ。