世紀末

RPGに限らず「勇者が魔王を倒してハッピーエンド」という形式の話は多い。もちろん類型的な話であるということは同時に定番であるわけで、下手に奇をてらった話よりは余程良いのではないかと思う。しかし、魔王を倒した勇者を止められる者などいないのだから、勇者が暴君になったら少しもハッピーではないのではないか。
もちろん勇者のその後に触れている物語もある。良い王様になったり、元の生活に戻って幸せに暮らしたり、人知れず遠くへ去っていったり、といった結末のものが多い。後日談なのだから当たり障りない話にしているというのもあるだろうが。
逆に物語の本編で神を殺してしまう物語もある。その神が善か悪かどちらとも言えないかは別としても魔王が現れる前の状態での支配者を殺すというのは確実に世を乱す原因となるだろう。
女神転生や*bandのような善も悪も全て等しく敵だという世界観では神を殺すのも当たり前だろう。そうではない、普遍的な正義があるという世界観では普遍的な正義があるという世界観では神殺しを是認するのが難しいのではないか。
これは優しい独裁者の問題に似た部分がある。素晴らしい政治を行う独裁者は排除するべきなのか。現代の民主主義の価値観からすれば排除するべきかもしれないが、排除の結果として善政が布かれる可能性は低いだろう。そのような行為が正義だと私には思えない。
さて、システムの面から考えてみよう。結局のところ魔王は戦って倒せる存在である。一般のモンスターとの違いはパワーの大きさくらいで質的な違いはほとんどないと考えられるだろう。それに対して善神はしばしば抽象的な存在であり、戦って倒せるようにはなっていないことが多い。(抽象的な存在でない場合は魔王と同様に勇者に殺される可能性が残ることになるが)
しかし物語上は善神と魔王が戦っている例が多いようだ。具象と抽象では戦いようがないように思うのだが。戦うというのは言葉の綾に過ぎなくて、実際にはお互いに手出し出来なかっただけなのだろうか。
結局、神といったところまでスケールを広げた結果にシステムが追いついていないということなのだと思う。システムが作られた当初のRPGはもっとスケールが小さかった。*1女神転生や*bandの場合はシステムに合わせて神や悪魔の概念の方を矮小化したというようにも思える。どちらもあまり格好の良いものではない。

*1:D&Dの神は一応システム的には殺せる存在だが実際には強すぎて無理に近いだと聞いた。