否定神学

http://d.hatena.ne.jp/kilrey/20081230/p2#c1230660574で連想した話。
否定神学とはwikipediaによると

否定神学(ひていしんがく、ギリシア語 apophatike theologia)とは、キリスト教神学において、神を論ずる際に使われた方法論の一つ。ラテン語では via negativa 否定の道 とも呼ぶ。神は人間に思惟しうるいかなる概念にも当てはまらない、すなわち一切の述語を超えたものであるとして、「神は〜でない」と否定表現でのみ神を語ろうと試みる。肯定神学とともに、キリスト教神学における二潮流を形作る。神秘主義との関連が強く、またドイツ語圏を中心に哲学へも影響を与えた。

というところ。否定神学において「否定表現でのみ神を語る」という行為が意味を持つのは「神は人間に思惟しうるいかなる概念にも当てはまらない」という大前提があるからだ。例えば、多神教の世界は否定神学と馴染まない。一切の述語を超えたもの同士を区別することが原理的にできない以上、多神教の神をそれぞれの神の極々限られた一面だけだったとしても語ることはできるはず。
否定神学の論法は大前提を共有しているもの同士でしか意味をなさない。否定表現が「表現されたもの以外」という表現である以上、大前提が違えば否定表現の意味するところも違っているだろう*1。表現の意味するところが違ったままでする「議論」は議論ではない。
……防衛線。こんなことを書くと「意味するところは本当に一致すると思っているのか」といったツッコミを受けるかもしれないが、議論をまともに行うためにはその範疇で「意味するところ」が共通している、少なくともズレを互いに了解している必要がある。

*1:もちろん、論理学の上での「否定」は前提を考慮しないものだが、各論に直接使うようなものでもないし。